カーキ色の服を着た天使
隼介に初めて与えられた仕事は、果物の選別工場での仕事だった。
朝6時前に起き出して、メイン・ビルでさっさと朝食を済ますと、早朝時半にはエル・ロームを出発する車に、慌しく飛び乗る毎日が始まった。
他のキブツと共同で建てられた選別工場は、エル・ロームから幹線道路を3,5キロばかり南に下り、そこから2,5キロ西に行ったキブツ・メロムゴランのすぐ近くにあり、同じ敷地内には、エル・ロームを含めた、近郊のキブツで栽培されたブドウを使うワイナリーもあった。エル・ロームに滞在する、隼介と同歳のアメリカ人のアンディーは、このワイナリーに、アドバイザーとしてアメリカから招かれていたのだった。
この工場で取り扱われる果物は、ゴラン高原の各キブツで収穫されたものが殆んどで、リンゴだけでなく洋ナシなども選別されて出荷されているようだったが、初めて隼介がこの工場に足を踏み入れた時、目の前に山積みにされたリンゴの量を見て、樹木の目立たないこんな土地で、よくもこれだけの量を栽培出来るものだ― と隼介は、心底感心してしまった。
隼介はこの仕事に、毎日エル・ロームのメンバー7、8人と一緒に出ていたが、ボランティアは、リタとキャティーが一緒だった。そして、他のボランティアから聞かされていたように、キャティーには、いつもボランティア・リーダーのケニーが付いていた。隼介には、長髪の金髪のユダヤ人の男と、あの「鉄の女」サッチャー元英首相のような可愛い目をした、とびっきり明るいイギリス女の取り合わせが、何故か妙にお似合いに見えて、他のイギリス人ボランティアからは、良くみられていない様子のこのカップルが、逆に羨ましくさえ思えた。それにケニーという男は、気難しい感じの人間が多いイスラエル人の中では、非常に気さくでよく笑う性格で、なによりも全てに不慣れな隼介によく気を使ってくれて、そのお陰で最初の1週間にしては、気疲れを感じることがなかった。
ただ、初めて経験するキブツ社会はというと、大変単調なうえに刺激のない社会で、さすがに隼介も、3日もすると飽きてしまったが、その反面、海外に出て初めて経験する、お金や生活の心配を一切しなくても済む生活は、精神的には非常に楽で、1週間が過ぎて、隼介が楽しみにしていた、初めてのシャバット(安息日)・ディナーを迎える頃には、それまで張り詰めていた気持もすっかり解れ、余裕を感じるようになっていた。
そして、その初めてのシャバット・ディナーを迎える金曜日の朝、隼介は、早くから目が覚めていても、ベッドから出ようとはせず、かといってそれ以上寝ることも出来ずにいた。
それは、隼介がイスラエルに向かう途中に通過した、ギリシャのアテネで知り合った、イスラエル返りのイギリス人が言っていた、「シャバットは、金曜日の日没から土曜日の日没までと決められていて、この間イスラエル人達は、一切の労働を禁じられる。だから、街は、ほとんど死んだ状態になる」という話で、隼介は、シャバットが始まる金曜日は、とにかく何もしないで、家でじっとしているものだと思い込んでいた。
カーテンのないダイニングの窓から、西日がベットのところまで差し込んで、7時過ぎには自然に目が覚めていた隼介だったが、頭から毛布を被り直して、何度も寝返りを打っては溜息をついた。隣のベッドからは、ポールの気持良さそうな寝息が続いていて、自分が先に起き出して、ポールの睡眠を妨げたくもなかった。
こんな時に、日本語の本でもあれば、どんな種類の本でも、最後まで飽きずに読めるのに― と、そろそろ日本の活字に飢えかけようとしている時に、イスラエルに来る前に何の想定もせず、何の本も持たずにきた自分に後悔もした。
隼介は、少しイラついてきて、毛布を引っ剥がすと、暫く頭の後ろで腕を組んで天井を見上げながら、ボーリングなシャバットのことを考えていたが、その内、アテネで会ったイギリス人が言っていた、シャバット中のイスラエル人の話を思い出していた。
「これはジョークじゃなくて、ごく普通に笑い話程度に言われてる話だけど、イスラエルでは、シャバットの間に、水道のパッキンが壊れて水漏れがおこっても、奴らは、それを自分で直すこともできないし、勿論イスラエル人の業者に頼むこともできないんだぜ。そうなっちまったら、慌ててアラブ人の修理屋を捜すか、俺達よそ者に頼むしかないのさ。すでに俺達の国と同じレベルの近代的先進国家で、おまけにジューイッシュと言えば、もの凄くお偉いイメージがあるのに、未だに何世紀も前の宗教上の教えに縛られ続けてるんだから、まったくユダヤはわかんないよな」と言って、イスラエル人のことを鼻で笑って話していたのを思い出した。
でも、もしその話が本当だとしたら、一般のイスラエルの家庭はいいとしても、こんなコミュニティーの生活は成り立っていかないよな?― 隼介がそう思って、体を入れ替えて横を向いた時、ポールと目が合った。
「やァ、おはよう、シュン。もう起きてたのか。今日は休みだぜ、ゆっくりすればいいんだよ。・・・でも、今日みたいな日は、早く起きて、皆の朝食を準備したなんて、勤勉な日本人をアピールするなよ。俺はそんな気の利いた人間は苦手だから」
ポールは、そう言って軽いジョークを飛ばすと、起き上がって大きく背伸びをし、それからだるそうにサイドテーブルに置いてある時計を覗き込んだが、「もう8時か」と言うと、座りなおして、ズボンを履き始めた。
「・・・でも確かにあれか、最初は俺もそうだったけど、週末が金曜、土曜というのは、俺達の普通と違うから、感覚がズレるよな。ユダヤ人て、どうして国際社会の枠に合わせないんだろうって思っちゃうよな。日本人の勤勉さは有名だけど、ユダヤ人の頑固さも凄いからね。・・・まァ、すぐに慣れることだけどね」
「週末のことは、俺は特別どうってことないね。だけどポール。聞いた話だけど、シャバットって、イスラエル人は働いちゃいけないんだろ。・・・ということは、明日の昼間は、このキブツはどうなるんだ?」
ポールは、「あァ、そのことか・・・」と言いかけて、ベッドから抜け出すと、隼介に、「コーヒーを作るけど、飲むか?」と言って、キッチンに立った。部屋には小さなキッチンが付いていて、殆んど使われている様子はなかったが、メイン・ビルのダイニングから勝手に持ち帰った、コーヒーや紅茶は沢山ストックされていて、いつでも作って飲むことができた。
「確かに、全てのメンバーが休みを取ることは不可能だよ、鶏もいるし、ガリリー湖の近くの養殖池では、セントピーターズ・フィッシュっていう淡水魚も養殖してるから、誰かが動くことになるんだ。でも、イスラエルにも風習に縛られない人間はいるし、こういった特別なコミューンにまで、そんな無理を押し通そうなんて野暮な考えはないようだよ。特に海外から移住して来たユダヤ人は、イスラエルで生まれ育った人間よりも現実的だからね。あのマイクや、キッチンの責任者のダニエル。彼もアメリカから移住してきた一人だけど、あまりシャバットを気にしてないようだよ」
「へェー、そうなんだ。海外からの移住者って、このキブツにもけっこういるんだな」
「シュン。よく見てみなよ。このキブツにだって、肌の色の違うメンバーがいるし、完全にイスラエル生まれなのに、白人種の金髪の人間もいるだろ。ユダヤ人って、一番仲の悪いアラブ人と同じように、黒目、黒髪、浅黒い肌というイメージだと思うけど、ここのメンバーのガリーっていう男は、アフリカのどこかの国から移住してきた黒人だし、ボランティア・リーダーのケニーや、鼻にピアスをしてるラルフを見てもわかるように、まったく白人種の容貌の人間もいるよな。大体最近言われてる、ユダヤ人と呼ぶための定義といえば、ユダヤ人の母親から生まれた者か、ユダヤ教に改宗した者っていうことらしいけど、ユダヤ人は、ずっと昔にこの地を出て行って、実際多くの民族と混ざり合ってる。俺達が勝手にイメージしてる、ユダヤ人の本来の容姿からかけ離れてるイスラエル人は、大なり小なり、そうした帰参組みの人間に関わっているんだよ」
隼介は、ユダヤ人がパレスチナの地から世界各国に離散していったのは、2000年も前からだと、何かで読んだことがあった。それだけの長い年月があれば、移り住んだ現地の他の民族と交わることは、極自然なことだったろうし、その結果として、容姿の違うユダヤ人が生まれることも、また自然なことだと思った。しかし、ユダヤ教に改宗すればユダヤ人になれるということに対しては、何となく軽い考え方のような気がしてならなかった。改宗さえすればユダヤ人になれるんだから、ユダヤ人が雑多な人種の集まりになるのは当然だろう。2000年前に出て行った、純血のユダヤ人とは、似ても似つかぬものとなって帰ってきたユダヤ人は、本当にユダヤ人なんだろうか― と、ユダヤ人をあまり知らない隼介でも疑問を感じた。
「だから、シュン。もし君が望んでユダヤ教に改宗すれば、君だってユダヤ人になれるっていうことだ。・・・ジャパニーズの宗教は、シンドウとかブッディズムだっけな?」
ポールが、「シントウ」と「シンドウ」を間違って言ったことに気がついて、隼介は訂正してやろうかと思ったが、それだけ知っていれば立派だと思い、思い留まった。
「・・・そうだよなァ。改宗するだけでその国の人間になれるなんて、そんな国、他にはないよな。でも、そうやって多くの他の民族と交わり、他民族の地に居座りながらも、それでもなおユダヤ人は、ユダヤ人としてのプライドや理想を、捨てたり同化されることなく、気の遠くなるような年月、ずっと持ち続けて来たんだから、それは驚嘆に値するよな。・・・だけど、シュン。君が仮に改宗してユダヤ人になったとして、シャバットみたいなものに固執すると思うかい?たぶんしないだろうね。まァ、俺や君と同じようなイスラエル人もいるってことだよ」
そこまで話すとポールは、「あァー、こんな話を朝からするのは、もうやめだ。イスラエルに来てるんだから、せめて週末だけでもバケーションしようぜ」そう言って、シャワーを浴びに行ってしまった。
ユダヤ教の解釈では、1日は、夕方から次の日の夕方となる。そのためシャバットは、金曜日の夕方から土曜日の夕方となっているのだが、そのシャバットに入る前に催される、神への祈りと、その後のディナーのために設えられたダイニングは、いつもとまったく違った雰囲気になっていた。
いつもなら6人掛けのテーブルは、何列かの長いテーブルに組み替えられて、白いクロスが掛けられ、テーブルの上には、飾りつけも行われていて、パンの入ったバケットと、赤と白、2種類のワインが置かれていた。そして、一番前に設けられた儀式用のテーブルには、祈りに使われるのだろう、メノラーと呼ばれる7枝の燭台が置いてあった。
隼介はダイニングに上がって、初めてシャバット・ディナーのために設えられた会場を見て、やっとシャバットが特別なものだという実感がわいた。
普段だと、皆作業着のままダイニングに上がってくると、勝手に食べたいものをチョイスして、好き勝手に食事を始めるのだが、この夕食だけは、ボランティア以外は、全員がいつもより良い服を着て集まり、全員がテーブルに着くと、まず神に祈りが捧げられ、それから食事が始まるようだった。
もう見飽きてしまったためか、それとも、ユダヤ教徒でもなく、ユダヤ教自体にも、関心も興味もないのか、ボランティア達は、ダイニングの一番隅のテーブルに固まって座り、一応迷惑が掛からないように、全員すまし顔で祈りがすむのを待ってる様子だったが、人一倍好奇心の強い隼介だけは、初めて経験するシャバット・ディナーでの儀式を、一人興味深そうに見守っていた。
7枝のメノラーの1枝ごとに燈されていくローソクの灯火や、祭服を着たメンバーの男性が唱えるヘブライ語の祈りは、初めて目にする隼介にとって、とても神秘的に映った。
「ヘイ・・・。ヘイ・・・。シュン・・・。何をそんなに真剣に見てるんだよ?ちょっと聞いてくれ」
電気を落として行われている祈りの時間を、息を殺して待ち続けることに、少し疲れてきたのか、隣に座る、一番気が短そうなスティーブンが、隼介の脇腹を小突いて、小声で話しかけてきたのは、そろそろ祈りも、終わりに近づいた頃だった。
「シュン。一通り食事が終わったら、後は俺達だけで、毎週楽しむことになっている。いいかい、各テーブルに置いてあるワインがあるだろ。ここの連中は、殆んどアルコール類は飲まない。だから、いつもワインが沢山残る。それを集めて、後で俺達が飲むのは自由だ。ここのワインは、ゴラン高原のワイナリーで造られたものだけど、結構いけるんだ。だから、食事が終わったら、ワイン集めに協力しろよ。今日は、シュンを歓迎するパーティーだぞ」
スティーブンがそう言って、隼介の顔を見てニヤッと笑いかけてきた時、祈りは終わり、ダイニングの電気が一斉に点けられた。
キッチンの責任者のダニエルや、ボランティアのアン達が、キッチンから大きなトレーに入れた料理を運び出し、各テイブルに配り始めたが、いつもの簡単な夕食しか知らない隼介が驚くほど、テーブルに並んだ料理は手が込んでいた。牛肉や野菜を使ったものは勿論だが、バッフェには、何種類かのスイートも用意されているし、それにこの日は、このキブツの養殖池で育てた、セントピーターズ・フィッシュの料理もあり、イエス・キリストの伝説にも登場する、その有名な魚料理まで出てきたことに、隼介は感動した。
「あーッ、なんと良いとこなんだろうな、ポール。もしこんな食事が毎日出てきたら、たぶん俺はここを離れられなくなるぞ」
「シュン。これから長く居ればわかるけど、本当うに楽しみはこれだけになるよ。2ヶ月も居れば、キブツの厚意で国内旅行くらいさせてもらえるけど、他には何もないんだからね。後は下のショップで、マカビー・ビールでも買って飲むくらいのものさ」ポールは、そう言うと、テーブルの上からワインのビンを2本取り、開け始めた。
「さァ、皆。乾杯しようぜ。新しい仲間と、3日前に22歳になったジャネットと、この1週間に課せられた重労働の成果と、それから・・・と、何かあるかい?そうだ、アンディーが造った最高のこのワインに。乾杯!」
ポールの掛け声で、周りに座っているボランティ達は、一斉に隼介とジャネットとアンディーに向かって、ワインの入ったグラスを高々と挙げた。
隼介は、それに応えるようにグラスを持って立ち上がると、ボランティア一人ひとりとグラスを合わせていった。そして、テーブルの一番隅に座っているアンディーと目が合うと、彼に向かって、敬意を込めてちょこんと頭を下げ、小さくグラスを挙げたが、アンディーは、それほど楽しんでいる雰囲気には見えなかった。
「ポール。アンディーは、いつもあんなに冷めた感じなのか?もっとこっちに来て、一緒に騒げばいいのに」
「シュン。アンディーはほっとけ。俺達ボランティアとは出来が違うんだよ。顔を見ても、ユダヤのインテリ様そのものだろ。硬いんだよ。よほどUCLA(カリフォルニア大学ロス・エンジェルス校)で成績優秀だったから、わざわざイスラエルにまで呼ばれて来てるんだ。彼はここのお客さんなんだから、別に俺達が気を使う必要もないんだからな」
ここの客人― という言葉を聞いて、隼介は、仲間意識が薄れ、アンディーから気持が遠のいていく気がした。それにこの男には、自分と同年代でも、自分とは次元が違う、近寄りがたい雰囲気を感じていたのも事実だった。
「ポール。じゃァ、アンディーの隣で、黙々と食べている男がいるよな。あの熊のような図体の男はどうだい?」隼介は、そう言うと大笑いをして、嬉しそうにその男の方を指差した。
アンディーの隣には、長髪で髭面のキーウィーが座っていて、すでに黙々と食べ物を口に運んでいた。物静かそうで、見るからにマイ・ペースで生きているような雰囲気の、厳つい男に見えるが、デカイ図体の割には器用で、ジョークも好きだし、子供にも人気がある。ポールの話だと、とびっきり美人のイスラエル人の彼女もいるらしかった。
「あァ、キーウィーか。いつも憎めん顔して、ひたすらメシ食ってるよなァー。あの男もテンションの上がらない男だから、よほど気分が乗らないと、一緒に騒ぐことはないよ。今日、例の彼女が来れば、俺達のことなんて無視して、さっさと部屋に引き上げるよ。だけど、あんな飛びっきりの美人が、よくもまァ、あんな男にくっ付いたもんだ」
隼介は、チャンスがあればキーウィーに、今日は声をかけてみようと思った。歳が隼介と同じということだし、イスラエルに居座り続ける理由には、少なからず興味があった。
週に一度の晩餐会だからだろう、いつもだと皆食事に集まってきても、簡単な夕食ということもあり、用だけ済めば、さっさと部屋に帰ってしまい、残って話し込む姿はあまり見かけないが、この夜だけは、あちこちで談笑するメンバー達の姿が多く見かけられた。
しかし、メンバーのイスラエル人達は、食事を楽しみながら、少量のワインは口にするが、羽目を外すような飲み方をする者は皆無で、それが隼介には、意外だった。
「ポール。ここの人達は、たまには酒で憂さを晴らすなんて、俺達凡人のするようなことはしないのかなァ?ちょっとやそっとの酒では、潰れそうもない男はゴロゴロいるのに、どのテーブルも、一向にワインが減ってないじゃないか。こんなに自分達を戒める生活で、より良い人生を送っていると言えるんだろうか?まァ、確かに、さっきスティーブンが、後で残ったものは回収するって言ってたから、しこたま後で飲めて、俺達には、より良いものに違いないだろうけどね・・・」
「シュン。現実を考えろよ。心がけが違うんだよ、ここの連中は。テルアビブやハイファのような、アラブの国から少しでも遠い海沿いにでも住んでりゃまだしも、こんなとこに住んでて、酔っ払うことなんて出来ないだろう。もし不意に不幸なことでも起こったら、取り返しのつかないことになるんだからな。敵兵に、『引き金引くのは、酔いが醒めてからにしてくれ』なんてことも言えないだろう・・・。俺は、少なくても俺がここに居るうちは、彼らには、常にこうであって欲しいと思うけどね。・・・ここに来て1月経つけれど、間違いなく俺は、酔っ払いを一度も見ていないよ」
隼介は、それが賢いことであり、逃れられない事実と理解できたが、逆に言えば、よくそれで、長い間こんな土地で暮らしていけるものだと思った。人間にはジェラシーや欲があり、その裏側には、必ずストレスが付きまとう。神様でもない限り、ストレスを感じないで生きていける人間なんて、いようはずも無いから、ここで暮らす人達にも、きっとそれはあるはずだ。しかし、ここで生きていく者には、それを乗り越えられるだけの、精神力が必要ということらしかった。
「元々キブツというコミューンには、理想的な純共産主義社会を実践をするという名目があるので、ここに集まった人達は、全てを納得した上で、メンバーとしてここで暮らしているし、ゴラン高原がどんな場所かもわかって生活してるんだから、俺達よそ者が同情することもないよ。それに、イスラエルという国が、ゴラン高原を手放せない理由も関係してるからな」
ワインを遠慮も無くガブ飲みしながら、この時とばかりによそ者面して、ワイワイ騒いでいるいる自分達を、ここの人達は、いったいどんな気持で見ているんだろう― 罪悪感に似た気持が、一瞬隼介の心を過ぎった。
それから隼介は、イスラエルに入って、またひとつ教わった、イスラエル人の凄さと哀愁を感じながら、ダイニングの一角で、ボランティア達が華やいだ空気を作り出していることにも、まったく無関心な様子のメンバー達の横顔を、一人ずつ見回していった。
そして、ダイニングの中央付近に座っている男を見た時、ふいにその男も、隼介の方に振り向き、男と視線が合った。するとその男は、隼介に向かって親しげに手を上げ、暫く隣の男と何か話していたが、立ち上がると、隣に座っている男を連れて、隼介の方にやって来て声をかけてきた。
「やァ、こんばんわ。一度話をしたいと思っていたんだけど、君は確か、ジャパニーズの・・・、シュンだったよね。俺はイツハク。こっちはヨーゼフだ。よろしく」
イツハクと名乗るその男が、そう言って手を差し出すので、隼介も立ち上がって、手を差し出した。
「俺達は、小麦畑の方の管理を任されているんだが、もしよかったら、来週は俺達の手伝いを頼めないかな?」
隼介には、仕事を選ぶ権利はないので、「まったく構わない」と応えると、イツハクは、「じゃァ、ギラには俺の方から頼んでおくよ」そう言って、笑いながらもう一度手を差し出してきた。ギラは、隼介達ボランティアの仕事の、割り振りを担当している女性だった。
「俺は、ニホンのことはあまり知らないが、ヒロシマとカミカゼは知ってるよ。来週は、いろんなことを教えてくれ」
「ヒロシマは、俺の家がある街なんだ。知っててくれて嬉しいね」
隼介の実家が広島だと聞いて、イハツクだけでなく、周りのボランティア達も驚いた顔で隼介を見た。
「シュンは、ヒロシマの人間なのか。今、ヒロシマに、木や草は生えてるのか?」
スティーブンとテリーが、そう言ってクスクス笑うので、隼介は、「ドイツ軍のV2ロケットで破壊されたロンドンの街は、瓦礫が少しは片付けられて、復興はうまく進んでいるんだろうな?」そう言っていい返すと、スティーブンもテリーも、バツの悪そうな顔で下を向いてしまったので、それで一斉に笑いが起きた。
それから暫くイツハクとヨーゼフは、ボランティア達がジョークを交えた軽口を叩くのを楽しげに聞いていたが、その内、「じゃァ、来週はよろしくな」そう言って、隼介に声をかけると、もとのテーブルには戻らず、そのまま部屋に帰っていった。
「あの二人は、俺達よりも2、3歳年上なんだけど、特に、イツハクの方は、ジューイッシュ・フェイスそのままで、良い面構えしてるだろう。あの男は、19歳の時に、第4次中東戦争に参加しているし、2年前には、南レバノン侵攻にも参加している、筋金入りのソージャーだよ。『俺は、アラブ人は嫌いだ』と言って憚らないし、凄くアラブ人を憎んでる。ヘタなことを言いでもしたら、何をされるかわからないから、あの男には、怖さすら感じるね。・・・そうだ、あの一番向こうのテーブルに、軍服を着て座ってる年配の男がいるだろ。あの人はイスラエル軍の将校さ。それも結構上のポジションのね。今、予備役で駆りだされていて、週末だから帰ってきてるけど、あの人も相当な人間だよ」
隼介は、ポールが顎をしゃくって指した男の方を見たが、その男性が付けている軍の階級章の意味がわからない隼介でも、見た目で大体の地位は想像はできた。
「来週は、あいつらから凄い話が聞けるかもな、シュン。・・・ただ、ここの麦畑は、ずっと南の、ヨルダン渓谷のすぐ側にあるから、ヨルダン渓谷を見るには、いいチャンスだよ」
ポールはそう言って隼介の肩を叩くと、ちょっと背伸びをしてダイニングを見回し、もう殆んどのメンバーの食事が終わっているのを確認すると、「さァ、皆。そろそろ食事も終わりのようだぜ。後は、ダイニングの当番を手伝って、俺達ボランティアも、残ってるものを片付けようぜ」そう言って立ち上がると、進んで誰もいなくなったテーブルのクロスを捲り、テキパキとテーブルを片付けにかかった。
隼介は、こんな予定外の仕事が最後に待っていようとは、思ってもいなかったので、ポールの顔を何度も渋い顔で見ていたが、ダイニングを片付けている内に、結局はそうして片付け終わった後に残されたワインや食べ物が、これから始まるらしい、ボランティア達の週末のパーティーに回されるということがわかった。すると隼介もげんきんなもので、「俺らは残飯あさりのボランティア」と、何度も小声で呟きながらも、楽しそうに片付けを進めていった。それに、シャバットに入ると、イスラエル人達は働かないと聞かされていたので、自分達がその代わりなら仕方がないとも思った。
「ねェ、これも沢山残ってるわよ。みんな飲むんでしょ。はい、どうぞ。・・・でも、どうしてよその国から来る人って、お酒が好きなんだろうね?」
「あァ、悪いな。そこのカウンターの上にでも、適当に置いといてくれるかい。後で持ってくから。・・・でも、食事が済んだんだったら早く部屋に帰りな。子供はもう寝る時間だろう」
隼介は、ディッシュ・ウォッシング・マシーンの前で、マシーンのターン・テーブルに皿を突っ込んでいたが、いつの間に入って来たのか、殆んど手を付けられていない、ワインのビンを抱えて立っている少女に声を掛けられて、ぶっきらぼうにそう答えた。
「あら?シュンって意外に失礼な人ね。私はこれでも13歳よ。子供じゃないわ。ジャパニーズって、もっと理解があるのかと思ったわ」
少女は、そう言ってニヤッと笑ったが、歯に矯正器具を付けた顔は、お世辞にもまだレディーと呼ぶには幼かった。
「リアット。何してんだ。ジャパニーズと何話してんだよ?」
「何も・・・。ただ、シュンと話してるだけよ。ねェー、シュン」
リアットと呼ばれた少女は、これ見よがしに隼介にまとわり着きながら、つっけんどんに答えた。
「エー、ずるいよ。俺達だって、シュンには、聞きたいことが沢山あるんだからな」
やれやれ。うるさいのが来ちまったな― このキブツには、日本でいえば中学生位の子供が4人いて、その内のたった一人の女の子がリアットで、残り3人は男の子だったが、隼介がこのキブツに入ってから、この4人には、いつも興味深そうな顔で見られていて、隼介は、いつかこうして声を掛けられるだろうと、予想はしていた。
「ねェ、シュン。俺はシャーイっていうんだ。そいでもって、この太っちょがモーシェで、メガネをかけてるのがダニエル。友達になってよね」
隼介は、面倒臭そうにちらっと4人を見たが、別に興味もなさそうな顔で、「あァ、わかった」とだけ答えた。
「えー、本当。よかった。これで友達になれたぞ、皆」
シャーイは、隼介の側に駆け寄ると、ズボンで手を拭いて恭しく差し出すので、仕方なく隼介も、濡れている手をタオルで拭き、軽く握り返した。
「・・・それでね。実は・・・、お願いがあるんだけれど、空手を教えてほしいんだ」
隼介は、「ほら、きた」と思った。海外を歩いていて日本人とわかると、空手の真似をしてみせる子供が沢山いる。そこまでだったらまだ可愛いのだが、少しでも親しくなると、シャーイが言ったように、「空手を教えてくれ」と言い出すことがよくあった。
隼介は、暫く何かを考えていたが、「あァ、その内にな」と、ぶっきらぼうに答えると、首を小さく振って溜息をついた。しかし、3人の男の子は、勝手に「明日がいい。どこでやろう」と騒ぎ出したので、隼介もさすがに煩わしくなってしまい、「腕立て伏せが連続200回。腹筋が連続300回でも出来たら、少しは話を聞いてやるので、もう寝ろ」と怒鳴ったら、さすがに3人とも、顔を見合わせてキョトンとしてしまい、隼介も怒鳴ってしまったことに慌てたが、ちょうどその時、この子達に勉強を教えているメンバーの女性が入って来たので、3人は、まずいと思ったのか、何も言わずに引き上げていった。
やれやれ、俺だって空手は習ったことがないんだから、これからごまかすのが大変だぞ― 隼介は、適当なことを言ってごまかしたので、少しバツが悪かったが、これからあの子供達に付きまとわれることを考えると、何故か逆に楽しい気分になっていた。
「シュン。もうそれくらいすればいいよ・・・。後は当番がするよ。それに、もう下のショップが開いてるから、欲しいものがあれば、さっさと買っとかないと、閉まっちゃうぞ」
キッチンに繋がるドアの向こうから、マイケルが顔を出して、そう声をかけてきたのは、粗方片付けも終わった頃だった。マイケルは、「ビアー、ビアー」と、大袈裟に飲む真似をして、下のショップに行くことを促した。
隼介は、「そうだ、ビールだ」と叫ぶと、手早くタオルで手を拭き、急いで1階のショップに走った。ショップには、イスラエルのマカビーという銘柄のビールが置いてあり、もし買い損ねると、間違いなく悔やむことになるし、間違っても、ビール好きのイギリス人やニュージーランド人が、今夜のパーティーで譲ってくれるはずもなかった。
このキブツのショップは、週2回だけ店開きをしていて、なんと言っても、ビールやタバコ、それにお菓子が買える唯一の場所なので、ここで暮らすメンバーにとってもボランティアにとっても、ショップでの買い物は、楽しみのひとつだった。ただ、隼介の場合、まだこのキブツに来て日が浅いので、2週間ごとに支給される、キブツからの小遣い程度のお金は、まだ一度も支給されておらず、手持ちのお金で買うしかなかったが、長くいるボランティアの連中は、僅かに支給されるお金の殆んどを、ここで使っていた。勿論ボランティアにも、生活必需品は、全てキブツから支給されるので、買う必要はないが、それ以外の、嗜好品やアルコール類、化粧品、下着などの衣類は、個人的に買う必要があった。
隼介は、ショップに飛び込むと、ビールを半ダースと、それから、寒い屋外での仕事中に食べようと、レーズンの入ったチョコレートをひとつだけ買った。隼介もタバコは吸うが、タバコは、ギリシャから乗って来た船の免税店で、イスラエルの免税ぎりぎりの量を買ってきていたので、当分はそれで賄えた。本当はアイスクリームやクッキーも買いたかったが、手持ちのお金を減らすのが嫌で、レジの横のフリーザーを見て、残念そうな顔をしていたら、レジの担当が、「シュンは、来週になったらお金が貰えるんだから、ノートに付けておいてあげる」と言ってくれたが、海外に出てから、いつもお金の使い方にはシビアであるように心がけていたので、それは断った。
隼介は、「これは特別にサービスだ」といって貰ったアメをなめながら、紙袋に入れたビールを小脇に抱えて、ダイニングに上がる階段を駆け上がった。階段の途中の踊り場まで来ると、ジャネットとスティーブンの高笑いが聞こえたので、もう他の連中は、よろしくやってるんだと思った。
そして、階段を上がりきって、ダイニングに飛び込もうとした時、急にバッフェの方から現れた、二人の女性の片方と危うくぶつかりそうになった。
「おっと・・・。これはごめん・・・。」
そう言って隼介は、前のめりに倒れそうになるのを必死にこらえて、体制を立て直して振り返ると、「大丈夫だった?」そう言って、ぶつかりそうになった方の女性を見た。
「えェ、私は大丈夫だけど・・・。あなたは・・・?」
「・・・・・・・。」
「ねェ、どうかしたの、大丈夫・・・?」
隼介は、返事も忘れて、暫く、ぽかんと口を開けたまま、その女性に見とれていた。
そんな隼介の顔が、よほど可笑しかったのか、「ジャパニーズって、変なの・・・。フフフ・・・」二人は、顔を見合わせると、噴出してしまい、そのまま階段を下りていった。
隼介は、その女性の後姿を追いながら、「あの子にあの服は、絶対似合わねえな・・・」と、独り言のようにぽつりと言った。それは、その女性が寒いせいか、上に羽織っていたカーキ色の軍のジャケットが、彼女のイメージを台無しにしていると思ったからだった。
「シュン。何してるんだ、そんなところで?あんたを皆待ってるんだぞ」
一番近くにいたテリーが、階段の方を向いてつったている隼介が動こうとしないので、側に来て肩を叩き、顔を覗き込んだが、隼介は、何を考えているのか、だらしない顔でニヤついていた。
「おい、シュン。どこかで頭でも打ったか?」テリーがそう言って、笑いながら頭に手をやると、隼介は振り返り、「俺は天使に会ったよ。お前も見たか?」そう言って隼介は、拳を突き上げると、奇声を発しながら、ボランティアの輪の中に飛び込んでいった。
−4−
もくじ HOME